知恵を愛求すること「哲学」

最近はすっかりアニメ「スタミュ」にハマって、キャラソンばかり聴いているわけですが(笑)、第1期のエンディングテーマであった「星瞬COUNTDOWN」の歌詞が結構よくてね。特に、

「足りないものがあるから 必死に手を伸ばすんだね」

という歌詞を聴いては、あぁ、ギリシャ哲学やわ~と思うわけですよ☆ ワタクシ、宗教的なものの考え方ってあんまり合わないんですけど、ギリシャ哲学の考え方は結構好きなのです。それというのも、「哲学」のスクーリングと、後に試験の後の講演会で、納富先生に教わったからですね☆

…でも、ブランクがあるので、ちゃんと覚えているか心配(汗)。あくまでも、ちょっとでも興味を持ってもらえたらいいな、くらいのつもりで紹介するまでですので、レポートのネタに使うときにはちゃんと文献で確認してくださいね☆

「哲学」という言葉は、明治になってから初めて出来た言葉だそうです。もともと、ギリシャ語の「フィロソフィア」という語は、「知恵を愛求する」という意味なのですが、日本にはそれに合うことばがなく、明治初期に西周が「希哲学」と訳したものが、後に「哲学」になったと。ちなみに、この言葉は中国に輸出されて、中国でも「哲学」という言葉が使われているそうです。

プラトンの『饗宴』に、エロスは、美と醜、善と悪、神と人の「中間者」であるという表現が出てきます。つまりエロスは完璧ではないので、自分をよくしようと努力します。しかし、すべてを併せ持つものとして、「神」を設定したところが、ワタクシのツボなんですね☆ どんなに頑張っても、神にはなれません。だから、永久に努力し続けるのです。

でも、努力をし始めるにはきっかけが必要です。それに関係するのが、無知の知、プラトンの『国家』に出てくる洞窟の比喩による、向け変えの技術と呼ばれるものですね。

ソクラテスは、アテネの街を歩いて、知ったかぶりの「ソフィスト(職業教師)」をつかまえては、愛とは?善とは何か?と尋ね、相手を論駁します。ほーら、知らないじゃないか、と言わんばかりに(笑)。でも決して、嫌がらせでやっている訳ではありません。普通の人は、他から指摘されない限り、自分が物事を知らないということに気づきません。でも、それに気づくと、人は努力するのです。だから、そのきっかけを作ってあげることが大切なのです。

そのことは一般に、「無知の知」と表現されることが多いのですが、先生は、それは正しくない、とおっしゃっていました。「無知」というのは、「自分が知らないということを知っている状態」、であって、ソクラテスが気づかせていたような「自分が知らないということに気づいていない状態」のことは、「不知」と表現するほうが適切であると。よって、「不知の自覚」という言葉のほうがより正確であるとのことでした。…なるほどね~。

「洞窟の比喩」も同様ですね。

人は、後ろを向くことが出来ない状態で、洞窟の内部に映る影を見ているだけで、太陽という「真実(イデア)」は見ていないといいます。たとえ、仲間の誰かがそこから抜け出して外の世界を見てきたとしても、洞窟の中にいる人は、それが「現実」なのであって、外の世界のことを聞いても、そのことを信じることが出来ません。また、暗闇の中で暮らしていた人たちにとって、太陽は眩しすぎるので、外の世界を見るには目を慣らすことが必要になります。よって、誰かリーダーとなる人が、他の人を外の世界に向けさせるように、導いてあげなければなりません。

ワタクシ自身、社会に出たら知らないことばかりで、自分の無知さを思い知らされました。昔は勉強が好きじゃなかったんですよね(汗)。でもその分、学びたいという意欲を持って改めて大学に入学したら、知ることが楽しくて、まるでスポンジにでもなったかのように(笑)、知識が染み渡っていくのを感じました。…吸い込む、吸い込む☆

そういうわけで、受験生なのに、気合いが入らない、とか、なかなか覚えられない、という声を聞くたびに、きっと「足りない」ってことに気づいてないんだろうな~と思って、事あるごとにこの話をするわけですが、…ちゃんと伝わってるのかな(笑)?

先日関智一さんの『声優に死す』を読んだのですが、人から教わろうと思っているうちはダメだ、「自発力」を持つようになって、相手から聞き出そうとすると、人は成長する、というようなことが書かれていました。ホントにその通りだと思います。受け身ではなく、自発的に勉強するようになると、嘘のように自然と覚えられます☆…年とともに覚えられなくなるなんてことは、今のところ実感したことありません(笑)。

ちなみに、ワタクシが卒論のテーマにした、アルベール・カミュの戯曲『カリギュラ』は、ソクラテスの影響を大きく受けていると思います。ローマ皇帝カリギュラは、愛する人の死をきっかけに「不条理」に気づき、月を欲しがります。「月」というのは「知の象徴」であるとする文化が多いのですが、同時にフランス語で「月を欲しがる」は、「不可能なこと」を意味します。決して月を手に入れることはできません。でもだからこそ、手に入れられるよう努力するのです。

またカリギュラは、「不条理」に気づいていない他の貴族たちのために、あらゆる暴政を行い、「不条理」とは何かに気づかせようとします。そもそも、戯曲という形式自体、ソクラテスが行った「対話」に似ていますよね。…そのことを指摘したら、先生が「いいことに気づきましたね」と喜んでくださいました☆ 結局カリギュラは、貴族たちを敵に回し、殺されることになるのですが、それもまた、ソクラテスが、危険人物だと見なされて処刑されるのと重なるところがありますよね。

10代の頃は、人は何のために生きているのか?と考えては、眠れなくなることがありましたが、この考え方を知ってからは、その悩みから解放されました。ワタクシには、足りないものがたくさんあります。しかも、教えるという仕事をしていると、余計に自分が空っぽになっていくような気がするのです。だから、つまらないことで悩んでいる暇はありません。多いに学ばないとっ!

ちなみに、ギリシャの神々は、アテネが戦争で負けてからは、信じられなくなります…なんだ、守ってくれないじゃないか、と(笑)。そういう合理的な考え方も含めて、ギリシャ哲学は好きです☆

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